新説・日本書紀④ 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)3月3日 (土)
神代紀 記紀が隠した天神降臨
消された真の天照大神
江戸期まで「武士の史書」として崇められた「先代旧事本紀」という書がある。その巻第3に天神本紀があり、記紀の天孫降臨と同様の記事が載る。その主人公は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と云い、天孫瓊瓊杵尊の兄である。この神が、宮若市磯光の天照宮に祭られる真の天照大神ではないか。記紀と違い、男神で、天照宮社記には「垂仁天皇十六(紀元前14)年、饒速日尊が笠置山に降臨した」とある。
約130年後の神武即位前紀の東征宣言の段にはこうある。「昔我が天神、高皇産霊尊・大日孁尊、此の豊葦原瑞穂国を擧(言葉に出して言うの意味)して、我が天祖彦火瓊々杵尊に授けき。是に、火瓊々杵尊、天關闢き、雲路披け、仙蹕駈ひて以ちて戻り止まり、此の西の偏を治す。鹽土老翁曰く、『東に美し地有り。青き山四に周り、其の中に亦天磐船に乗りて飛び降る者(=饒速日)有り』と。余、謂ふに、彼の地は、六合の中心か。何ぞ就きて都なささらん」。
神武は瓊瓊杵尊の直系で、西の偏(筑紫国)を統治していた。東の美し地(豊国)は饒速日尊の子孫が治める六合の中心だった。神武はこの地を東征しようとした。また、天孫降臨を強調するため、記紀は大日孁尊を女神天照大神に置き換えたとも取れる。さらに、「蹕」とは「御車(天孫)」を指し、降蹕は天孫降臨を意味する。これらのことから、筑豊に「天神降臨」の史実があったが、記紀はそれを隠したと考える。
先代旧事本紀によると、天神饒速日尊は32将・天物部25部族(別表)の大軍勢を率いて、六ケ岳(宮若市)の北麓、新北に上陸作戦を敢行したと思われる。その記録が「誓約」の場面だろう。素戔嗚尊は6柱の男子を産み(神代第六段一書第3)、天照大神は宗像三女神を産む。三女神は風土記逸文と六嶽神社社記に「六ケ岳に降臨」と伝わる。続いて笠置山(宮若市)に降臨した後、立岩式石包丁を使う豊葦原瑞穂国を制圧。古遠賀湾を渡り、田川市夏吉の岩屋鍾乳洞に素戔嗚尊を追い詰め、「天香山直近の天の岩屋戸で千座置戸(スレート状の石)を負わせ圧殺した」と推測される。
金印国家倭奴国の創建
素戔嗚尊の一族を根之堅州国(旧出雲国)に追放した後、饒速日尊も伊弉諾尊と同様に筑豊の地に「虚空見つ日本の国」と名付けた。万葉集29番には「天満倭」と表記されている。全国の天満宮には本来、天神(饒速日尊)が祭られていた。
この国はまた、中国正史の後漢書や旧唐書にいう「倭奴国」であり、福岡市の志賀島から出土した金印に彫られた「委奴国」でもある。倭奴国・委奴国の遺称なのか、筑豊やその周辺には豊前市の犬ケ岳、宮若市の犬鳴山、田川市の猪膝、水巻町の猪熊など「犬」「猪」の付く地名が多い。
倭奴国第2代の王は、天香語山命という。やはり香春の王であったようだ。この王が後漢の楽浪郡(北朝鮮・平壌)に使者を遣わし、57年、光武帝から金印を下賜された。金印はかつて香春に安置され、後に神武東征の結果、筑紫国に持ち去られ、今日に至ったのかもしれない。
次回は3月7日に掲載予定です
饒速日尊の率いた天物部25部族の推定所在地
(立岩式石包丁の分布と重なる地名)
①二田(ふた)物部、鞍手郡小竹町新多二田ケ浦
②当麻(たぎま)物部、未詳
③芹田(せりた)物部、宮若市芹田
④鳥見(とみ)物部、直方市頓野
⑤横田(よこた)物部、飯塚市横田
⑥嶋戸(しまと)物部、遠賀郡遠賀町島門
⑦浮田(うきた)物部、未詳
⑧巷宜(ちまたき)物部、未詳
⑨足田(あしだ)物部、未詳、鞍手郡疋田説あり
⑩須尺(すさか)物部、糟屋郡粕屋町酒殿
⑪田尻(たじり)物部、未詳、みやま市田尻?
⑫赤間(あかま)物部、宗像市赤間
⑬久米(くめ)物部、未詳、糸島市久米?
⑭狭竹(さたけ)物部、鞍手郡小竹町
⑮大豆(おおまめ)物部、嘉穂郡桂川町豆田
⑯肩野(かたの)物部、北九州市小倉北区片野
⑰羽束(はつかし)物部、遠賀郡岡垣町波津
⑱尋津(ひろつ)物部、鞍手郡鞍手町八尋?
⑲布都留(ふつる)物部、鞍手郡鞍手町古門?
⑳住跡(すみと)物部、未詳
㉑讃岐三野(さぬきのみつの)物部、未詳、福岡市博多区美野島?
㉒相槻(あいつき)物部、朝倉市秋月?
㉓筑紫聞(ちくしのきく)物部、北九州市小倉南区企救
㉔播麻(はりま)物部、未詳、筑紫野市針摺?針磨とも書いた
㉕筑紫贄田(ちくしのにぎた)物部、鞍手郡鞍手町新北
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#物部氏分布